玉木秀和の自叙伝
もくじ
ご挨拶
偶然にもご縁があって、HPにお越しいただき、ありがとうございます。
自分らしさを最大限に発揮して、望む未来を切り開くためのサポーター「導き屋」玉木(たまき)です。
進むべき道に迷う人や、自分に何ができるのかと、もがき、模索している人達に、セッションやコーチングをさせて頂いています。
一介のサラリーマンだった僕が、何故、このような使命を生きているかと言いますと、まさしくそんな悩みに押しつぶされそうになっていた過去があるからです。
人生どん底の時を、僕がどのようにもがき苦しみ、長いトンネルを抜け、仲間やパートナーにも恵まれて生きられるようになったかの経緯をお読みいただければと思います。
普段友達にもこんな話はしないのですが、少しでも同じ悩みを抱えた誰かのお役に立てば、、、そんな思いから、面白味もない人生かもしれませんが、自分の半生を語らせていただきます。
はじめに
30代までの人生を振り返ると、後悔ばかりが思い浮かんでくるのはなぜだろう…。
不甲斐ない自分に、知らず知らずのうちにずっとダメ出しを繰り返した人生を、自分自身でも情けなく思う。
ありきたりな普通の人生を歩み、秀でるものが何もないと思い込んでいた40年足らず。あまりに何もかもが上手くいかず、人生を終わらせようと本気で思ったときも、正直あった。
悲しいほど無口な少年時代
出身は、岐阜県の山あいの村。
幼少期から高校卒業までを、生れ落ちた実家で過ごした。父母姉の4人家族で、良くも悪くも平和で安全、ただ、しいて言えば、楽しみのない田舎で育った。
幼少期の僕は、引っ込み思案で、誰がどう見ても、大人しい少年。自分から話すタイプではなかった。そんな僕をもっと、しゃべらなくさせる要因の一つが、おしゃべり好きな親戚の集まりだった。とにかくにぎやかで、何人も同時にしゃべっているような会話のカオス。大人しい僕の頭の上を、会話が飛び交っていて、入り込む隙は、一秒もないように感じていた。
親戚からは、「ひでちゃんは、ほんとしゃべらんね~」と、苦笑いで突っ込まれ、子供心に深く心が傷ついた。当たっているからこそ、「やっぱり人もそう思ってるんだ」と、家に帰って、悲しくて泣いたことを今でもよく覚えている。
自分も本当は、トークを回したりしてみたかった。親からしゃべるなと言われたわけでもないのに、トラウマがあるわけでもないのに、とにかく、自己表現の仕方が分からず。自分がここにいていいのかな?と思ってしまう申し訳なさを子供心に抱えていた。
「しゃべっていない自分」を自覚するたびに、委縮をして、自信を無くしてしまった。そんな子供らしさのない幼少期は、楽しい思い出がひとつもない。
後悔だらけの中高生時代
青春という記憶は全くない。
田舎だったので、ただ普通に毎日登校するだけの日々。何をしていたか記憶がないという虚無感が残るだけだ。
高校は共学で、気になる子がいない訳じゃないけど、一言も話したことはなかった。部活はバレーボール部。恋愛をしたり、悪いことをしてみたり、怒られたりしてみたかったが、ただ漠然と人生を過ごしていたような感じだ。
それを幸せだねと言う人もいるかもしれないが、青春って本来は楽しいんだということを、大人になって人から聞いて、泣けてくるのだ。広い世界、遊び方、勉強の仕方、興味があることの探し方を、もっと10代で知っておきたかった。
ただ学校に行って帰って、何をしていたのか思い返すことが出来ないほど、何も考えずに過ごしていた。しなかった後悔、知らなかった後悔が心に穴を空ける。
遅咲きの青春期大学生時代
大学の青春期は、地元を離れ富山で過ごした。
実家の事情を考えると、当然、国公立の大学という選択肢の中から選ぶことになる。自分の学力で、唯一選べたのが、富山の大学だ。受かったは受かったけど、申し訳ないが、別に行きたかったわけではなく、地元を離れたくはなかった。
大学は理系の技術系に進み、50人クラスで女子が6人。かわいい子もいたが、イケてるグループと仲良くしていて、自分は外から見ているだけだった。
親元を離れ、少し殻を破ることができ始めたのがこの時期だ。大学3年生の時、友達何人かでフットサルサークルを立ち上げた。そこから、大学生活を満喫することが出来たと記憶する。
サークルのメンバーと毎日一緒にいて、バカなことをずっとしていた。徹夜で桃鉄、からの早朝に車でドライブ。そして港や砂浜でもサッカーの練習、年末のカウントダウンまでもサッカーで過ごしたのは良い思い出だ。夜中に学校に忍び込み、新年1発目のゴールを誰が決めるか、なんて遊びで腹を抱えて笑っていた。学内で飲み会をして先生に激おこされ、泣きながら謝ったりと、思い返せば「これが青春」と、いう貴重な体験ができたのが大学期だ。
20才過ぎてからの遅い青春だったが、自分自身を支える心の満足感となった。10代で味わえていれば、また何かが違ったかもしれない。
新社会人で受けた痛い洗礼
大学を卒業し、なんとなく就職した。
大学の紹介で、地元で受かった会社に、何も考えずに決めた。大学で就職準備をほとんどしていなかったためか、社会人について分からないことだらけで、新人研修でつまづいた。
自身でも思うが、全くもって仕事が出来なかった。仕事が出来ないとなると、社会人でもイジメや無視があるのだなと知った。同期の中で自分だけ、先輩からお土産をもらえなかったという出来事があった。これは嫌がらせと言うものなのだろうと理解し、落ちこぼれのレッテルを貼られた気がした。
いきなり新人研修でつまづいてしまった自分だけ、別の部署を探してもらい、なんとか研修を終えることができた。
しかしながら、技術職として派遣された大手企業でも、再び落ちこぼれてしまった。大企業の正職員は、頭の回転が違う天才ばかり。なんとか周りの方のサポートを得ながら、仕事を続けることが出来ていたといった具合だ。
プライベートでは、スポーツのサークルに入ったが、みんなと一緒にいても全然話さないことも多くあった。当然、彼女もできるわけがない。学生時代から、全く女性と話してこなかったので、コミュニケーション能力もなかった。恋愛経験もないから、気になる女性にアプローチしても、どんどんスルー(笑)
今思い返しても痛い思い出だ。新社会人でつまづく人はいる、決してみんな上手くスタートを切れるわけではない。それでも毎日コツコツと出来ることを積み重ねていくしかない。
そして留学へ~束の間の天国
社会人6年目、30才手前で一大決心をした。
会社を辞め、アメリカのワシントン州シアトルへ語学留学。今思えば、ある意味遅い「反抗期」というものだったのだろう。僕は自由になりたかったのだ。
仕事を忘れ、学生気分を取り戻した結果、初恋にも似た甘酸っぱい経験をすることになる。
語学学校のクラスメイトで、ものすごい可愛くて激タイプな香港人に片思いをした。初めは、英会話レベルが違いすぎて空回りしていたが、半年経過する頃には英語にも慣れ、話しかけることができるようになった。クラスメイトとも話せるようになってきた時の解放感は格別だった。
1年経った時、たまたまホームステイ先を変えたことでまたドラマが起こった。そのホームステイ先に来ていた日本人女性と出会い一目ぼれ。でも、彼氏がいるということで良い友達でいることにした。
だが、留学も終盤を迎え、帰国が間近に迫ってくると、どうしても気持ちを伝えたくなり、人生初めての告白に踏み切った。やっぱりフラれたけど、言えたことで大きな満足を得た。直後に帰国となり、忘れられず号泣する日々であったが、これが初恋という感情であることを知った。
たった1年だけでも仕事を忘れて、人生でも再度味わえるか分からないような経験が出来て、本当によかった。そして微力ながらも英語力という、今後の自信を支える武器が出来たことは代えがたい宝となった。
何もかもが上手く行かない、死にたかった30代
初めての東京~外資系なのに縦社会⁉
日本に帰国し、転職で初めて東京に上京。
100社エントリーして、1社のみ、やっと内定。英語力を買われて装置のサポートエンジニアとして外資系企業に就職することができた。
しかしながら、まさに職人の世界!と言った感じで、外資系なのに、まさかの厳しい縦社会が待ち受けていた。にわかのアメリカ帰りの僕は、どうやら生意気だと受け取られてしまったのだ。
先輩にもフレンドリーになりすぎて、挨拶や礼儀ができてないと怒られ、どんどん人間関係が悪化していった。いつ怒られるかと、いつもびくびくしながら過ごしていた。
31歳なのに・・30歳を超えてるのに・・「こんなにも仕事ができない」という劣等感を痛感していた。そんな状況で働き続けることが出来るわけもなく、限界が来て半年で退社。
「半年」はまだ早すぎると思う人もいるかもしれない。でも、この時の選択は正しかったと思っている。身体も大事だけど、本当に大切なのは心の状態。心が一旦落ち着いたら、全てが変わるのだ。
「仕事ができない」陰口との戦い
奇跡的にも、数か月で転職先が決まった。
前回の反省を生かし、礼儀を重んじて挨拶は丁寧に。ただ、いかんせん、技術系で未経験分野だったので、何も分からず必死に勉強の日々。先輩にくらいついて聞きまくれば、自分で考えろと叱責され…。
次第に聞こえてくる、「あいつは仕事が出来ない」という陰口の嵐。毎日必死で仕事をして、仕事以外何をしていたんだろう、というくらい仕事のことを考えていた。その中でも優しい先輩や、部署異動などのおかげで、なんとか数年耐えることが出来た。
しかしながら、30代も半ばになり、この先の人生を考えて新たな一歩を踏み出すことにした。決して前向きではない「再度の転職」。
ずっと我慢していることは必要ではない、これは自分の人生だから。自身の心が一番正しい答えを持っている。心が違うと判断したら、それが正しい決断。
不思議な結婚相談所で見つけた「使命」
いつの間にか、30代後半になってしまった。
長い道のりだったが、今回の転職では、だいぶ落ち着くことが出来た。人間関係や仕事が自身に合っていたのか、次第に精神的にも慣れてきた。
仕事が落ち着いたら、心に芽生えてきたのは、「結婚」の二文字だった。
プライベートで仲良くしていたグループの女性にアプローチしてみたのだが上手く行かず…仲間内でぎくしゃくすることになってしまった。
戦う土俵を変えるべく、人から紹介されて、結婚相談所の話を聞くことになった。結婚したいとは言っても、プライドもあり即決もできなかった自分も正直いた。
ただ、「新しいチャンス」と捉えることにして前へ進むことにした。この決断が自身の運命を変えたといっても過言ではない。まさに行動は全ての源だ。
この結婚相談所が、ちょっと変わったところだった。結婚相手のご縁繋ぎだけでなく、クライアントの人生全般を良くしようと動いてくれるカウンセラーが、一人で切り盛りしている相談所だったのだ。
そのカウンセラーの紹介で、ご縁あってあれよあれよという間に、新しい転職先が決まった。すぐに転職を考えていたわけではなかったが、ずっと興味があり、いつか携わってみたいと思っていた教育関係の仕事だ。
女性との出会いより先に、今後の人生の分岐点となる仕事にたどり着くことができた。
また、ひょんなことから、その結婚相談所が主宰した交流会旅行で、恩師とも言うべき人と出会う。その人は、60代の男性だが、人脈が広く、好きなことで生きているオーラがあって、とても輝いて見えた。
初対面でも人の本音を引き出せるような天性の営業マンのような人で、自然に人の懐に入ってしまうような存在。まさに、自分の憧れが体現されたような人物。
その方が開発し提唱しているカードセッションで、自己分析をしてもらった。すると、自分が思っている事、好きなことが、どんどん言語化されていった。
自分が思っていることを、自分の口を通して「言える」んだと感動して、口から出たその「言葉」も、妙に腑に落ちた。
人生で初めて、「これがやりたい!」と心の底から思った。
「しゃべること」にコンプレックスを抱えた少年が、大人になってもコミュニケーションで挫折を繰り返してしまい、本当の自分の気持ちを口にすることができなくなっていても、このやり方なら、絡んだ糸を解きほぐすことができると、身をもって直感したのだ。
自分と同じ気持ちを抱えている人がもしいるのであれば、自己表現とは何かを伝えたい、と湧き出る感情を強く感じた。
この感動は、数年経った今も変わらず、人生で一番大きな決意となり、自分へのセッションをするだけでなく、転職や婚活、パートナーシップに悩む人に対しても、気付けば100件以上のセッションをするに至っている。
あれだけ、しゃべれないことに悩み、虚無感にさいなまれていた自分が、いつの間にか、人を癒し励ます存在になっていたのは、心から「やりたい」と思うものに出会えたからなのだと思う。
不思議なことに、スラスラと言葉が出てくるのだから自分でも驚く。自身のライフワークとも言えるものに、30代後半で出会えたことは奇跡とも思っている。
40代でも50代でも60代でも、それはきっとあるはずだ。
心が感じた本当にやりたいこと、それはまさに「使命」だと思う。「使命」を感じることが出来る人は多くはない、使命という言葉すら聞くことなく、人生を終える人もいる。使命を感じたということは、その道を進めば、運も背中を推してくれる。
その証拠となることが、まもなく起きることになるのだから。
運命の女性との出会い
カードセッションとの出会いで、自身についての言語化が進み、思いをスムーズに人に伝えられるようになってから、ある特別な出会いがあった。
それが今の愛すべきパートナーとの出会いだ。
彼女とは、結婚相談所が主宰のイベントで出会ったが、一度目では、実は何も進展はなかった。その後、また旅行イベントに参加した時に、偶然にも彼女と再会することになる。
笑顔が素敵で明るい女性だなと眩しく思っていたが、なにぶん、恋愛では積極的に動けるタチではないことから、二度目の出会いでも仲良くなるチャンスを逃してしまう…。
その後もひたすら様々なイベントに参加するたびに、偶然も重なり、何度も会うことが出来た。過去の自分よりも成長した段階で彼女と出会えたことも大きいが、運命の偶然の引き合わせにも助けられ、あとは交際に発展することは自然な流れだった。
深く話を聞いてみると、彼女も、自分と同じような幼少期や青春期の悩みを経験してきたことが分かり、深い部分で共感できた。そして何よりも、一緒にいると無理をしていない自分に気付いたことで、人生を共にするなら彼女しかいないと確信に至った。
今なお、彼女は僕の原動力となってくれている。
家族を持って天命を生きる
「使命感」を感じるということは、人生が軌道に乗ったということを示してると思う。それが本来進むべき道なんだというメッセージなのだ。
だから僕は、彼女という最高のパートナーにも出会うことが出来、人生が新たなステージへ進み出したと確信している。
以前とは明らかに、人生のステージが異なると感じる。何も武器がなく、漠然と人生を生きてきた時とは、意識が異なる。家族を持った時からか、周りからも雰囲気が今までと違うとよく言われるようになった。
ただ、天命を知り軌道に乗ったとは思いつつ、何もかもが全ていくわけではない。天命を生き始めた出発点に過ぎないと思うが、これからもコツコツと積み上げていこうと思う。
天命を知るは、最初の一歩にすぎない。ただ、その一歩は人生でどれだけ大きいことか。
知ってからの道のりも短くはないが、自身が信じる道や直観を進めばそう道に迷うことはない。あとは、自身に問いかけて人生を進めていけばよい。
まとめ
長くなりましたが、自分の自己紹介を兼ねて、半生を綴らせていただきました。
きっと同じような思いを抱えてる人がたくさんいると思います。
数年前までの僕のように、無難に人生を過ごし、間違いがないように冒険などを極力せずに、セーフティーで人生を歩む。それも決して悪いことではない。ひとつの選択肢だと思います。
ただ、ずっと平穏は続かない。人生には波が必ずあり、良いときもあれば悪いときもあり、表裏一体となる、それが人生。人生の悪い時、一人で悩まないで下さい。転職、婚活、パートナーシップ、出口が見えず悩むことがあれば、僕のところにいらしてください。
絡まった想いを解きほぐし、言葉にならない想いを言葉にして語りましょう。そして、使命を共に見つけましょう。人生は使命の元、本来上手くいくように出来ているものなのですから。
さあ、未来へ向かって、一歩を踏み出しましょう。